昭和50年6月大須商店街で,学生を中心とした若者たちによる祭「アクション大須」が開催された。この祭りの計画は名城大学の自主ゼミ「現代哲学研究会」(指導・池田芳一助教授)の都市問題に関する討議から生まれた。「名古屋の繁華街にはうるおいがない。盛り場とは,見知らぬ人が声をかけ合い,ドラマがあるべきだ。」大須の盛り場一帯がゼミの学生の注目を引いた。「大須で祭りをやろう」。池田助教授を中心に多くの学生が集まり祭りは午後3時にスタート、ハッピ姿の学生たちがア−ケ−ド街のつじつじでカゴを旦ぎ、祭りの主役たちである市民を運んだ。ロックコンサート、路上ファションショ−,移動演劇,落語,ガラクタ市、幻灯会など奇抜な催しが、次々と場所と時間を変えながら午後9時過ぎまで開かれた。当時の新聞によると,その日はおよそ30万人の人出があったという。昭和50年の成功に引き続き昭和51年には2日間にわたって「アクション大須」は開催された。1日目は「若者の祭り」,2日目は「家族の祭り」として前年同様「アクション大須」は多くの市民を集め、かつての盛り場の大須をよみがえらせることに成功した。
この2年間の「アクション大須」が契機となり、大須大道町人祭がはじまったとされる一方で、いやまったく無関係との当事者の意見がある。この2年間の「アクション大須」が契機となり、大須大道町人祭がはじまったとされるが、アクション大須が大須復活のきかっけとなったのは事実としても 組織的にもまったく違うものである。 |